添い寝介助の見学レポート

4/29土、添い寝介助(同窓)の見学レポート

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東京大学・障害者のリアルに迫るゼミ運営 I・I

「添い寝介助?」
 熊篠さんにノアールの活動についてお話をうかがっていた時にこの言葉を初めて耳にした。どういうことだろう。何をどう介助するのか想像がつかない。それになんとも妙な響きである。「添い寝」と「介助」がくっついていることに違和感を感じた。
 聞けばノアールでも初めての試みで、男女のカップルさんからの依頼があって実現したという。ふたりはそれぞれALSとミオパチーという難病を患っており、自由に身体を動かすことができない。介助者複数名がおふたりの身体を動かす手伝いをしながら、寄り添ったり手を繋いだりハグをしたりできるようにするということらしい。
 その時は「ふーん、そんなこともやってるのか、すごいなあ」と思っただけだったのだが、ノアールのウェブサイトをふと見たら「障害男女の添い寝の介助者募集(学生は見学のみ)」とのお知らせがアップされていた。見学できるの?本当にいいのかな?と思いつつ、行ってみたい、という気持ちに負けた。
 介助の当日、緊張でガチガチになりながら、介助チームの方々との待ち合わせ場所に向かった。やっぱり実際に見学させてもらうのには覚悟がいる。添い寝という本来は二人だけのプライベートで親密な場に入っていき、しかもそれを「見学」するのだから(実際に見学するのは添い寝までのセッティングと、終了後の車椅子へのトランスだけだとはいえ)。
 実際に介助者の方々と会う前には、性的でプライベートなことを他者が介助することに対してあまりいいイメージを持っていなかった。寄り添いたいし相手に触れたいけれど自分たちだけではできない。だから最終手段として仕方なく介助者に依頼するというようなネガティブなイメージや、セクシュアルなことを他人が「わざわざ」手伝うというようなシュールで滑稽なイメージを持っていた。

見学を終えての感想。
こんなにアツい人たちがいるだろうか。
 まず介助チーム。熊篠さんに加え介護福祉士と作業療法士の方々計5人である。介助前にチームだけでの軽い打ち合わせがあり、それから彼氏さんの家へ向かった。その事前打ち合わせの段階からふたりに更に親密な時間を過ごしてもらえるようにと新たな提案が出ていた。介助が終わった後、ご飯を食べながらの反省会でも、「次はこういうふうな姿勢をとったらお互い更に顔が触れやすいよね」とか「そしたら私がこう彼女さんを補助して」などと、ご飯をモリモリ食べながらとにかく熱心に話し込んでいる。語弊があるかもしれないが、ワイワイ盛り上がっているのでびっくりしてしまった。
 だからといって自分たちの提案を押し付けているわけではなくて、彼氏さんと彼女さんふたりの気持ちや「やりたいこと」を最優先しているのは伝わってくる。実際の介助現場でも、介助のプロらしくふたりの身体と気持ちを大切にいたわりながら、ふたりと一緒に「共同作業」をしているように私にはみえた。
 そして何よりも彼女さんと彼氏さん。「本来人に見せるものじゃない。だからもちろん見られるのは嫌だし、添い寝もハグもキスも手伝いを頼むのはすごく恥ずかしい」のだけれども、でも好きだから「手伝ってもらってでもしたい」とおっしゃっていた。
 それは多分「障害を乗り越えて愛を育む」とかキレイな大仰な話なんかではなくて、「この人が好きだ」「この人にふれたい」「この人とエッチなことをしたい」というただただ自然な気持ちなのだろうと思う。全ての人とは言わないまでも、多くの人が普通に持ちうる感情だ。
 二人はただ出会い、好き合ってその思いがかない、付き合うようになった。そうなったなら、その先のことを望むのは、例えば一緒にいたい、触れ合いたいと望むのは普通のこと、でもとっても大切なことだ。性欲やエッチなこともしかり。なぜ障害があったり難病だというだけでその気持ちを否定されないといけないのだろうか(※)。
 でもだからといって「手伝って」と簡単に頼めることではない。えいやっと勇気を出してノアールに依頼し、介助チームを信頼してまかせることはなかなかできることではないのではないか。
 とにかく全員が真剣に、一丸となって取り組んでいるのだ。すごいことだなあと思う。もちろんきれいごとばかりでは済ませられない、だって人のセクシュアリティなのだから。その場に関わっている人それぞれが、ある程度覚悟を持ってその場に臨んでいることはわかる。でもその緊張感は決して居心地の悪いものではなくて、利用者/介助者の枠を越えて一緒に、お互いを信頼してやろうという真剣さなのだと思う。
 その場にいて何もできない自分がもどかしかった。私はいち学生にすぎない。何の役にも立てなかったけれど、もし何かできることがあるなら輪に入っていきたい、すすんで何かしたいと思った。
 自分だけじゃできないけれどやりたいことがあるのなら、そしてやりたいという気持ちを共有して一緒にやれる人がいるのならやりましょうということだろうか。それはセクシュアリティには限らない。しかしセクシュアリティに関してはまだまだ私たちは目をそらしがちで、頼みにくいし引き受けにくい。その中でノアールの介助チームと今回の彼氏さん彼女さんのように、信頼関係をつくれることはなかなかない喜ばしいことだ。プライベートで時には生々しい場に他者が入っていくことの難しさはあるだろうけれど、もう少しハードルが低くなればいいのに。
 やっぱり、どうしても見学していることの罪悪感は拭えなかった。人に見せたくないというのが当たり前なのだと思う。それでも「こういう人たちがいると知ってほしい」と見学を受け入れてくださり、時にはぶしつけな私たちの質問にも丁寧に答えてくださったおふたりには感謝しかない。そして介助チームの皆さまも、時間を惜しまず私たちの疑問やモヤモヤに付き合ってくださった。本当にありがとうございます。
 さて、介助見学から2ヶ月たった今でも、その体験を消化できている感じはしない。このレポートも消化不良を反映して(笑)ぐちゃぐちゃとして読みにくい(申し訳ありません)。きっとこれからも長いこと、モヤモヤ考えていくことになるんだろうなあと思っている。

※障害や難病の苦しさや生きづらさを無視したいわけではない…。簡単に理解できることではないからこそ目を背けたくない。特に彼氏さん(ALSの患者さん)の「私の身体はどんどん動かなくなっていくし、そのうち全く動かせなくなってしまう。だから今私ができることをしたいんです。私のわずかな力で触れられたその感覚を彼女に覚えていてもらいたい」という言葉には、喉がつまって何も言えなくなってしまった。「ここでなんで私が泣くんだ」と思って必死でこらえた。質問しようと思っていたことも全て吹っ飛んでしまって、かろうじて「今日はありがとうございました」とお礼を言って部屋を出たことを覚えている。

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東京大学・障害者のリアルに迫るゼミ運営 N・T

誰も触れない二人だけの国_____恋愛関係にある二人の男女がお互いの愛を確かめる時、私はいつもこの一節を思い出す。セックスに限らず愛をささやくとき、手を繋ぐとき、キスをするとき、その瞬間においては誰も不可侵である。いくら普段友達とふざけて下ネタを話すことがあったって、本当の奥底のことは恋人にしか見せないものだ。
 「添い寝介助」の話を始めて聞いた直後、私は全身性の障害のために目の前にいる愛しくてたまらない相手に自力では触れられないという顔も名前も知らない本人たちに思いを馳せ、自然と目が潤んだ。そして私が当初考えていたよりももっと深いところにある障害者の性の問題に直面し、言葉を失った。しかし、時間がたてばたつほどあらゆる気持ちが湧いてくる。その場において介助を頼むということは、二人だけの国を他者に開放するということ。大の大人が大の大人たちに囲まれて一体何をやっているんだ。そこまですることになるなら普通はあきらめないのか、そこまでして愛し合いたいのか、そこまでして触れ合えたところで何になるのか、いや、でも好きな人と何としてでも触れ合いたいと思うのは当たり前だよなあ、身体性の障害を抱えた人はそうするしか術がないのかなあ、とか。私は、障害者の性について考えるのなら、絶対にそこまで、この目で見ないといけないと思った。何が彼らをそこまで突き動かすのか。一体その空間はどんな空間なのか。また、そこまでして愛(性欲)を追求する二人の間には、私がずっと考え続けている恋や愛、性愛とは何かということのヒントがあるかもしれないという気もしていた。
 数日前から私はどんな気持ちでカップルと対面すればいいかを考えていた。楽しみ、興味本位、神妙な気持ち、好奇心、深刻な気持ち、憐れむ気持ち。どの気持ちも不適切なような気がして、(すべて入り乱れた気持ちだったというほうが適切かもしれないが)結局答えが出ないまま当日を迎えた。私は動揺した。その空間には驚くほどカラッとした空気が流れていた。みんなの頭の中は間違いなくこれから執り行われる「エロ」に支配されているはずなのに、ねちっこさというかじめじめとした感じというかはみじんも感じられない。そのカラっとさ加減に私は「本当にそういったことがこれから行われるのだよね?」と戸惑いを感じたほどであった。カップルの二人が恥ずかしさを押し殺して的確に自分の要求を伝え、介助者の皆さんも時に四苦八苦しながらもその要求にこたえられるように尽力する。そうして一つのものを作り上げていく様子は、私が来る前に抱いていた異様なものでもなんでもなく、(ここで要求されているのは性欲に基づくものではあるのだけど)ただ純粋に頼まれたことに対して純粋に応えていくというよくよく考えてみればいたって単純なものだった。介助者の皆さんは二人だけの国の建国のお手伝いをしていたのだ。一方私は終始傍観者という自分の立場に対する違和感・申し訳なさを感じていた。何を手伝うわけでもなくただ二人の姿を見ている。いくら介助者の人たちに「君たちがいたからこそ得られたものがあった」と声をかけてもらっても、この気持ちは消えなかった。
 あれから二か月ほど経った。正直言って、あの出来事を自分の中で消化させればいいのか、どうとらえたらいいのか今になっても確信を持てているわけではないし、これから変化していく可能性も多分にある。ただ私たちの質問に対する彼氏さん彼女さんの返答や常に頭の片隅において自分なりに咀嚼して過ごしたこの二か月間からひとまずの自分の思いはまとめておきたいと思う。ちゃんと自分の思いをまとめることが、きわめて私的な空間を見学させてくれたお二人に対する責任だとも思った。
 すぐに正解を求めてしまう私は、何においても少し困難に見舞われたりつらいことがあったりするともっとほかの適切な道があるのではないか、そちらを選択すべきなのではないかと考えてしまいがちだ。それは恋愛においてもである。ここまで苦労しなくてももっとほかにいい人いるんじゃないかなあとか、もっと幸せになれる道があるんじゃないかなあと。片方だけならまだしも双方が全身性の障害を持っていて自力で触れ合うこともできない。「大したこと」ができないのになぜ二人は交際しているのか。それが素朴な疑問としてあった。しかし____お二人にとっては相手がいてくれることそれ自体が大したことなのだという。そうした存在だからこそできれば触れてみたいなと思うようになるし、何か術はないのかと思うようになる。当初はどれほど性的なことを重視したカップルなんだろうと思っていた。それは私のとんだ勘違いだった(よく考えればわかりきったことであったが)。始点が性的なことに立脚していないカップルだからこそ、性的なことを追求し深く考えるようになるのかなあと。そしてそれは障害があるからどうのこうの、という話でもきっとないのだろう。好きだから触れたいと思う。ただそれをなすためにはちょっと他人の力を借りる必要があったというだけで。『いずれ身体が全く動かせなくなっても「思い出」や「記憶」は残るので、彼女の手や指の力を「記憶」しずっと「覚えて」いてあげたいのです。私の腕をふにふにしたねと。逆もしかり。私の僅かな力で触ったことを彼女に「覚えて」いて貰いたいのです。その「記憶」はワンナイトラブなどより遥かに気持ちよく幸せなことです。』彼氏さんのこの言葉は私の心に深く残ったし、彼の病気がそう考えさせるのは事実としてあるのだろうが、先立つ感情はやっぱり「好きだから触れたい」に尽きるのだろうと私は感じた。以前ゼミを通して知り合った障害者の方が「人の存在意義は役に立つ立たないであるものではない、その人がただいてくれるだけでよい」というようなことをおっしゃっていた。私はそうありたいと思いながらも本心からそう考えられている自信はなかった。しかし、あの日出会ったあのカップルの間には確かにそうした関係性が存在していると思った。家族ではない、他人と他人との間にそういう関係性ができることはそう簡単なことではないだろう。好きという気持ち、愛しいという気持ちは目の前に対峙した相手に対して芽生えるものであり、そこから初めて、いてくれるだけでいい、またあなたのために頑張りたいと時として生きる活力が沸き起こるのだと思う。こういうことってすごく素敵で、本当はもっと大切にしたほうがいいことなんじゃないかって思う。どんな医療も制度も介入できないことを、愛(時としてエロ?)がやってのけてしまうことがあるんじゃないかなあと。
 この企画に対する申し訳なさは解散後もずっと感じていた。しかし、あることをきっかけにその思いは変化した。それは彼氏さん彼女さんが嘘偽りなく私たちを受け入れてくれていたことが後日のやり取りで確信できたことに加え、ある友人との出来事にある。今回のこの出来事を友人に話したら「俺はちょっとそういうことよくわからないし理解できない」と言われた。私はあの現場をありありと見、感じ、あの彼氏さんの想いを聞いてきた。それを何も知らない友人にわけわからないと一蹴され、なんだかよくわからないけど、とても腹立たしい気持ちになった。なぜだろう。その時だった。私は二人だけの国に入国を許可されたものとして内側にいるのだなあと思った。確かに私も実際に目の当たりにする前は、「添い寝介助」は得体のしれないものとしてあった。しかしあれだけ衝撃を受け、その衝撃とは矛盾するような恋人同士の至極まっとうさも感じながら、答えが出ないまでもあの出来事に真摯に向き合ったのだ。自分としても許可されたものとしての自負はあった。私は性について(それは障害者に限った話ではなく)もっと語ることのできる世の中になってほしいと思うが、あくまで二人だけの国は誰も触れないもの。語ることができるようにすることと二人の国を開放することは違う。むしろこの問題に取り組む際にはそれなりの覚悟を持って二人だけの国に入国する必要がある。愛は尊い、と言うことは簡単かもしれないが、性に関わる問題にはもっともっといろんな難しいことが絡んでいる(同性ならまだしも、異性同士で相手の性的な介助をする難しさ・お金の問題・そもそも今回であったカップルは一例にしか過ぎないということ)。そこまで現段階でアプローチできていない自分に浅はかさ、薄っぺらさを感じてやまない。
 「あの二人が(もうこれ以上はできないのだと)絶望するところまで私たちも一緒についていきたい、だから私たちを置いていかないでね、と思う。絶望するってことはある程度もう、満足しているってことかもしれないけどね」ある介助者さんが帰り際にこう話していた。きっと素敵な関係性がカップルのお二人と介助者さんの間に築かれているのだろう。今回はただただ、そんな素敵な空間に私たちも入れてもらえたのがうれしかった。でもそれだけで終わってはいけないなと思っている。何をどうしていけばいいのか正直わからないが、ただ一つ思うのは、この一回で終わってしまわずに、ノアールの皆さん(可能ならカップルのお二人も)とこれからも関わり続けられたらいいな、ということだ。みなさん、このたびは一大学生である私を受け入れてくださりありがとうございました。そして可能なら、これからもよろしくお願いします。

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参考動画: #gettingsome: Disabled and sexually active | Life Links(新窓)
5分過ぎから3分程度